昭和49年11月14日 朝の御理解
御理解 第40節
「重い物を負うておるか担いでおれば苦しいが、そうでないから信心は楽じゃ。家業を勤め勤めするがよい。」
信心はなかなか私どもでは出来ません。第一暇がない。またお金もかかるという様な事を、信心のない人達がよく言う事です。かと言うて今度は信心を頂いておる人達でも、信心が返って重荷になっておる様な信心をしておる人達も、矢張りあります。信心は決して、重たいものを持っておるのじゃない。担いでおるのじゃない。だから信心は楽じゃと。ここの信心は楽じゃと言うておられる所を、今日私は信心は楽しみじゃと。字は同じ、楽という字、楽しくと言う事ですね。
信心は楽じゃと言う事は、どう言う事かと言うと、信心は楽しみじゃと言う所まで高められなければ、信心がおっくうになります。段々寒くなって参りますと、どうしても五体の動きが鈍になる。鈍くなって来ます。温かい布団の中から抜け出ると言う事だけでも、おっくうである。はぁもう三十分間もう一時間と思う様になる。
ところが子供達が、今日から旅行だとか遠足だとか運動会とか。何か楽しい事があるとです。それこそ布団を蹴って、起き上がってくるでしょう。これは大人でも同じですね。何か今日は、自分の好きな稽古事でもさせて貰うといった様な時には、朝からそれだけの心準備を致します。それは、その事が楽しいからです。旅行が楽しい遠足が楽しい運動会が楽しい。その自分の好きな稽古事が楽しいから、それが出来るのです。だから信心もです。今朝は、どんな御理解を頂くじゃろうかと。
日田の堀尾と言う、大変お徳の高い先生がおられましたが甘木のお弟子さん。一のお弟子さんです。毎日身体がお悪いから、甘木の教会にお参りになる。そして今の様にこんなテープレコーダー等がございませんから、親先生がずうっと繰り返し繰り返しお話をなさると、お広前に沢山な人が御理解を拝聴しておる。それを自分は身体がお弱いのですから、一日教会に居ってずっとお話を頂かれる。
頂けば頂くほど成程成程と、合点の行くお話ばかり。そういう風に段々なって参りますとね、お便所に立つ暇が惜しかったと言っておられます。親先生の話がずうっと出ておる。けども便所に行きたいなぁと思うても、自分が行っておる間にどういう素晴らしいお話が出るやら分からんと思うたら、お便所に立つのが惜しかったと。今日は善導寺の久保山さん御祈念に、ちょっと時間を遅れられた。けれども入口から小走りする様にして、ここへ座られる一つの勢いというものをです。
あぁいう勢いがこう言うお婆さんの、どこから出るだろうかと思いました。信心はですそういう意気込みと言うか、勢いが要るんです。皆さんが私の話をこうやって聞いて下さる。今日は御理解何節と言うたら、さっと教典を開かれるノートを出される。鉛筆を出して、どういうことを頂くかと言うことを、一生懸命全身を耳にして、こちらへ心を向けられる。私は信心もそういう風になって参りますと、信心が楽しいものになって来ておる印だと思います。また中村食堂の中村さんじゃなかばってん。
必ずこれを何べんか読み返すち言う。そすとあの時分かっていなかった事が分からせて頂くし、特に休む前なんかに、もう一遍朝の御理解の要所要所を思わせて頂いて、休ませて頂く所にです。本当に一日の有り難いお礼が、一層有り難く言える。朝の目ざましが一段と冴えた目覚ましのおかげが頂けるという意味の事を、何時も言われます。ですからただ、おかげを頂かんならんから参っとると。おかげを頂かんならんから、眠いながらも、話を聞いてると。
今日はどげなご理解じゃったかと。どげなご理解じゃったですかなと、何も残っておらんと。これではね楽しみになる筈はありません。これは信心が必ず重荷になります。「あぁ、何時まで参らんならんじゃろうか、おかげ頂いたなら参らんでんよかばってん。」それこそ、善導寺の原さんじゃないけれども。夫婦で一生懸命難儀な問題を抱えておられたから、参って見えた「はぁほんにおかげ頂きゃ、こげな寒かつにこんな早うから参らんでんよかばってん。おかげ頂くまでは頑張らにゃ」
と言うて頑張っておる内に、ノートの一つも買わせて貰う教典も買わせて貰う、段々信心が身について来た。もう止めろと言うたっちゃ止められんと言うように、段々信心が楽しいものになってきたから、原さん今の信心はどげな風ですか、重荷ですかと言うたら、決して重荷とは言われんだろうと思います。これは原さんだけの事ではありません。ここに居並んでおられる、皆さんの場合でもです。どうですか信心は重荷ですかと。そげな段じゃありません、有り難うして有難うして、楽しゅうして楽しゅうして。
だからこの寒い朝、三時半か四時と言うぐらいから起きあがって、お参りさせて頂こうという心も出来て来るんだ。所が今言うように、ただおかげを頂かんならんから、お広前に三十分も一時間も座っとかんならん。足は痛い眠り半分ですから、先生がどげなこつ言いござるやら、ぼんやりしてから耳に入らない。これだったらしるしい。しるしいと言う事が、信心が重荷になってるんです。
今日は思い物やらを担いだり、持っておるのではないから、信心は楽じゃという所をです。信心は楽しみじゃという風に聞いて頂いているんですよ皆さん。だからどうでしょう。信心が楽しくなってきたでしょうか。信心が楽しくなってきたら、おかげは絶対約束されたのと同じ事です。おかげが有り難い、おかげが楽しいじゃなく、信心が有り難いということになってきたら、信心におかげは付きものですから。
おかげは絶対なものです。けれどもおかげ頂かんならんから拝みよると、おかげ頂かんならんから、朝早うから参って来よるとというのは、おかげが暇どる。何故かと言うと天地の親神様は「氏子信心しておかげを受けてくれよ。」と仰っておられる「氏子、おかげを頂いて信心してくれよ。」とは仰ってないもん。だから信心を頂くんだと言う事になり、信心の稽古と言う事になってくる時にです。本気で朝起きもしなければならない。本気で勉強もしなければならない。
信心の稽古が身について来るに従って、信心が愈々こよない有難いもの、同時に楽しいものになって来るんです。そしたら信心は重荷じゃないでしょうが。しかも家業を勤め勤めするがよいと仰るのですから。稼業も何も振り捨ててから、山にでも籠らんならん。そういう信心じゃないのです、金光様の御信心は。それこそ私共も以前信心に、本当に熱中して、愈々有難うなって参りました。難儀は様々愈々これ以上の難儀はなかろうと言った様な難儀の中を通っておりましたけれども。
信心のおかげでですその難儀のおかげで、信心が出来ますと言った様な時代ですから有り難い。それこそ、どこに高徳の先生のお話があると言うと、そこまでお話を聞きに行く。人が、二十分か、三十分かの御祈念をする時には、一時間も二時間も御祈念をさせて貰う。日には、何十巻という大祓いも上げてみる。それが楽しゅうして楽しゅうして。そういう時分に、久留米の梅林寺さんのお坊さん達の修行しておられる姿なんかに、墨染の衣にわらじ履きで、町を修行して回っておられる。
あぁいう姿に触れる時にですね、本当にそれを羨ましいと思うた。何もかにも振り捨てて、ただ一意専念仏様の道を、あのようにして体得して行く事の為に修行しておられるのを見たら、あぁいう風になれたらどんなに楽しい事であろうか。けれども私には生活がかかっておる。妻が子供が、または親がある。それが出来んのが非常に残念。ああいう信心修行させて貰うたら素晴らしかろうと思うた時代がありました。
けれども金光様の御信心は、そう言う事では信心にもならないし、修行にもならないというのが、お道の信心なんです。最近なんかは表行と言う様な事は、全然ここでは修行生の中にこの頃から、熊本から女の修行生の人が、金光様の先生になりたいと言うて修行に来てました。所がどげん言うたっちゃご飯を頂かん、断食するという訳である。ですから私は三、四日目にです。「あんたがそげん断食するごとあるならば破門する。ここで修行は出来んそげん言うてくれんの。」と私が上野先生に言いました。
と言うくらいに今はそんな表行。断食てん水かぶるてんと言う事は、ここではそういう事ではいけない。いわゆる自力から他力にと言うか、自分の我力でおかげを頂こうと言うことでは我力を出しておる時だけは、おかげを受けるかも知れんけれども、人間ですから。そんなに我力ばっかりは出せない。出せなかったらおかげが頂けないと言う事になったら詰まらんでしょう。
佐賀に善隣会と言うのがありますね。大変一時有名でした。所があちらの教祖という人はね、一カ月に一遍ぐらいは、山に籠らんと御利益がなくなってしまうそうですね。だからその先生について、信者も山に行って色々修行するそうです。それで山から下りて来られた時には、偉い御利益があるそうです。所が下りてきてから、普通の者と同じ生活に、段々なって行かれるとです。人は助からんごと段々なってくる。そすとまた山に登らんならん。そういう信心ではいけないと言うのです。
いわゆる我力信心なんです。金光様の御信心はです妻を持ち子供を持ち。人間の様々な人間がなす事はなしながら、そういう家庭状況の中から、真の信心を分かって行こうと言うのが、お道の信心なんです。だから家業を勤め勤めするがよい。百姓は百姓商売人は商売人。勤め人は勤め人ソロバンをはじきながら、鍬を振るいながら。そこから生神金光大神の信心、教えというものを体得していけれる。そこから信心がまた信心を教えてくれると言う様に、信心も進んで行く。持っておる問題を通して。
信心が一段と分からせて頂くと言うのが、お道の信心ですから。家業を勤め勤めするがよい。昨日は十三日会でした。本当に合楽示現活動と言う事が、そこで叫ばれるようになり、それに参画をする人達が、段々多くなってくるに従って、毎日のお参りも、ウナギ上りに上昇しておる。毎日のお参りも月次祭なんかでも、千名以上のお届けがあると言うくらいに、それこそ驚異的な示現活動を、そこに感じる訳であります。
昨日の十三日会も、十三日会は四十名か五十名と、普通は言われておりましたけれども。示現活動が始まるようになって、段々多くなった。昨日は新館に一杯でした。百名近くの人が集まっておりました。しかも新しい顔ばっかり。だから示現活動の事も、もう一遍、皆さんに聞き直して貰わんならん。聞き直しよる内にです。何時も分かっておる筈の人達も、「はぁ今日はよう分からせて貰うた。」と言うて、お礼を言うて行かれるから、信心の話と言うのは、繰り返し頂かねばならんなと思いました。
昨日佐賀からお参りしておる方がありました。帰りがけにここに出てみえて、「来月の十三日も、どうでも一つ、お引き寄せを頂きたい。」今度は先生十三日会のご誠心を、今日は頂かせて頂きましたが。ただお話を頂くだけではなくて、せめてお話前に草の一本でも、むしらせて頂く様な気持で、この次は出させて頂きます。初めて参って来とる人が、そう言うて帰りましたよ。十三日会と言うのはそうです。朝から皆さんが午前中は、教会内外の清掃なんかにあたらせて頂いて。
神様の喜んで頂く様な働きを先ずしておいて、家業を勤め勤めしながら、そこから信心の有り難いものを頂いて。午後から有り難いお話を頂こうと言う。神願成就神様の願いが成就する日として尊ぶというのは、そこまで行かなければです、実は十三日会の本当の値打ちはないのです。ただ、十三日会のお話の時だけやってくる。ちゃんと十三日会の時には、おなごしなら、エプロンの一つも持って来ておいて、そして雑巾のいっちょも握らせて貰うという気持ちがなからなきゃ。
十三日会の値打ちはないです。ですからそこまで信心がです。昨日の佐賀の方のお届けじゃないですけれども。信心に楽しい有難いものをです。愈々感じて行こうとしておられ ると言う事が感じられますです。もう私共は歳じゃけん若ぇもんの方に頼もう。若ぇもんは若ぇもんで忙しかけんで、あげな事は年寄りに任せとこうち、十三日会にはだぁれん午前中は出てこんち言うならどげんなる。十三日会の値打ちがないじゃないの。若い者は若い者でなからにゃ出来ない御用がある。
それこそお年寄りは年寄りでも、それこそ草一本でもむしらせて頂こうという様な生き方が。家業を勤め勤めして行く所の。こういう御用を自分の家庭の上にも、御用として頂けれる所にです。信心が愈々有難うなってくるのです。あぁまたこげな仕事ばせにゃならんという所には、家業を勤め勤めするという意味はないです。家業を勤め勤め、信心を分かって行けという意味なんですから。ただ家業を勤め勤めするがよいと言う事を。普通の生活をしながら信心をして行けと言う事であったら。
信心と生活が別離してしまうです。この勤め勤めするがよいと言う事はです。その頂いておる自分の仕事、御用そのものを、本当に御用として勤め勤めするから、御用の中に新たな信心がまた頂けて行くのです。今日も御用にお使い回しを頂いて有り難いという、お礼も言えれるのです。そういう意味なんです、勤め勤めするが良いと言う事は。そういう中からしか私は信心は楽じゃと、信心は楽しみじゃという風に今日は聞いて頂いた。信心が重荷になっておる様な事ではです。
まず一つ信心の向学心を燃やさなきゃいけません。大体三日か四日したなら、天津祝詞大祓いぐらいは覚えますよ本気になったら。拝詞なんか一時間読んだら覚えます。何日参って来たっちゃ大祓いも何も上げきらん。何ヶ月参って来たっちゃ、それこそ教典一つまだ買うとらんと言った様な事ではね、信心が、重荷になっている証拠です。信心が楽しくなるためには、信心の稽古をせにゃいかん。稽古をするから稽古の楽しみ。今日はどんな事を教えて頂くだろうかと思うから、寒いけれども、布団を蹴って起きる様な元気も、また生まれて来るというものです。
どうぞ。